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ず、いくつかの介入が行なわれたとすればそれはどちらかというと、産児制限をとどまらせるための介入であった(Elmer,1994)。
1910−1938年にかけて、避妊具の販売や中絶は法によって禁止されていた。1938年になって初めて一部の中絶が合法化されるに至った。しかし、避妊具の販売は1970年頃まで完全に合法化されず、1964年の経口避妊薬の合法化によって、望まない妊娠を防止する可能性と権利が女性に認められたといえる。

 

中絶:
1900年代初期のスウェーデンでは、中絶は非合法であった。1938年施行された中絶法は厳しい制限適用を内容とするものであった。1950年代、医薬庁(1968年1月1日より社会庁に改名)の中絶申請に対する認可はとりわけ厳しく、却下件数の割合は11%から38%に上昇したことが指摘される。1951年度の合法中絶が6,328件であったのに対して、1960年には2,792件に減少しているが、中絶件数そのものが減少したと考えるのは疑問であり、コントロールの厳しさが背景に存在するものであるという見方の方が適切である(SOU 1983:31)。
1960年代に入って、医師や医薬庁による中絶法の厳しい制限適用に批判が巻き起こり、国内において合法中絶のできない女性に対するポーランドヘの中絶旅行が組織化されたりしている。1965年の統計によると、このような形で中絶した女性の数は1,500人に上ったことが指摘される。女性の権利としての中絶の合法化をめぐる社会議論がマスメディアを中心に行なわれた結果、中絶件数が増え1974年には31,000件の中絶が実施されるに至っている(SOU 1983:31)。1974年中絶法が改正になり、妊娠12週間前の中絶は女性の権利として合法化されることになった。妊娠12−18週間の中絶も基本的には合法であるが、女性の健康状態や社会的に出産の可能性が存在するか否かの調査を必要とするものである。18週間以降の中絶に関しては社会庁が胎児や母体の生命・健康状態が危険に侵される、あるいはその他の中絶理由が存在するとみなした場合にのみ、実施が許可されることになった(E1mer,1994)。
中絶の合法化によって中絶件数が増加したわけではなく、改定前の、1974年の31,000件に対して、1975年には32,500件、1984年には30,800件、そして1994年には32,293件と横ばい状態であった。ただしこれは妊娠総数の約5分の1にあたる(Elmer,1994)。
中絶への可能性が拡大されたことは医療経費の増加を意味し、それと同時に身体的・精神的なリスクをともなうものであることから、人道的な観点に基づく避妊による家族計画が重要視されてきた。したがって、スウェーデンでは産児制限や中絶に関するカウンセリングは、法によって医者あるいは、妊婦保健センターや公的な相談所で無料で提供されるものである。
妊婦/小児保健センター:
医薬庁によって妊婦ならびに小児に対する母子保健事業が始められたのは、1930

 

 

 

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